「はい」ではなくて「は~い」

久保語録
04 /10 2017


久保です。以前一緒に過ごしていて、今はほとんど会わない利用者の方にたまに会ったとき、変わらずに「久保ちゃん」とか「ひーたかちゃん」と呼ばれると嬉しいものですね。さて話は変わりますが、みなさん、ふだん人と会話していて、話を切るタイミングってどうしていますか?会って会話しているときもそうですが、特に電話のとき困りませんか?自分としては、聞きたいことは聞いて、言いたいことは言ったけど、でもそれだけじゃ味気ないし、ちょっと別の話をしたほうがいいのかも?でも相手は忙しいかも?いや意外と相手はもっとしゃべりたいと思ってるかも。

そんなとき、相手の気持ちを計りながら上手に話をきれるアイテムが「はーい」なのです。相手の気持ちをはかりながら徐々にフェイドアウトできるんですよ。振り返ってみるとすでにみなさんもすでに使っているかもしれませんね。

「とりあえず私は言うべきことは言ったし、もうこの会話終わりたいが、相手はどうなんだろう?まだ話があるかもしれないから、むげにはきりにくいし、また仕事と関係ない話をしたいのかもしれない。だって仕事の話ばかりじゃ味気ないし・・と思うとなかなか会話は切れません。「私はもう言うべきことは全部言ったので、あなたが特に話すことがなければこの会話は終わりたいんですがどうでしょうか?」なんて私たちはイギリス人ではないからとてもそんなことは言えません。

そんなとき便利なアイテムが「は~い」なのです。「はい」ではだめです。「はい」では一見会話は終わったようになりますが、何かぎこちなくなって、またしゃべってしまいます。「は~い」は「は~い」と伸ばさないといけません。お互い「は~い」と言いながら、「もうこの会話は終わりだよね、もういいよね、お互いそう思ってるよね」という気持ちのやりとりをしているのです。相手との有効関係を崩さないためには一回だけでなく二回三回「は~い」と言うと効果的です。だんだん「は~い」から「は~~い」とさらに伸ばすことをおすすめします。そうするとさらにいい関係のまま話を切ることができます。

あと、他事業所の方との会議や業者さんとの打ち合わせなどで、普段会わない方々と改まった席で話し合いを終えたあと、そのまま終わるには何か物足りなく、少し別の話題で会話したくなったり、あるいは会話しないとこのまま去ることができない雰囲気ってありますよね。これについてはまた今度考えてみたいと思います。



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就職フェア

久保語録
04 /02 2017


久保です。3月7日に就職フェアにブース出展で行ってきました。一羊会のブースにも大勢の方が来てくれて興味を持って話を聞いてくれました。みなさん、障害がある方たちと一緒に働くことや生活することをとても素晴らしいことと思っていて、私も気持ちを新たにしたのでした。

さて今回は戦争について考えます。なぜ戦争は起こるのか。学者小室直樹に言わせると、人間は本能として、自分の価値観を確固たるものにするため、己の価値観を周囲の人間に浸透させていく傾向にあるそうだ。そして自分と同じ価値観を持つ人たちと集団を結成する。困ったことにこの集団は現状維持のままでいることが許されない。現状維持のままいようということはすなわちその集団が衰退していくことと同じであるからである(なぜそうなるかは社会学的にも心理学的にも説明できるがここでは触れない)。故に、ある価値観に統一された集団は常に拡大していかなければならない運命にある。ここに悲劇が起こる。ある価値観の集団内の結束を固くしてその価値観を拡大していくには、他の価値観を否定しない
といけないからである(理想は明らかに他の価値観もお互いが受容できて共存できればいいのだが、歴史を見るとそれが成り立つのは難しい場合が多いと思われる)。自身の価値観の結束を固める方向にいけばいくほど、他の価値観の集団を認めない力が反比例的に増幅する。そして、最終的には相手手を攻撃してしまう。この時、他集団に対して残酷とも思える行為をしたとしても、そこには確固たる己の価値観が存在するので、相手を攻撃するのは、己の価値観に準じた正当な行為であり、それをすることが正義とまで思っている。己の価値観の使命に準じた行為なので、相手に感情移入をしなくて済むのである。いわゆる大義名分があれば、多少の犠牲はやむを得ないという恐ろしい理論が成立してしまう。これが戦争のメカニズムである。なんと恐ろしいことか。ここで言っている価値観とは、宗教であり、国家の主義であり、ある独裁者の価値観などである。

フロイトはいわゆる性衝動を基本としてエス・エゴ・スーパーエゴの組み合わせで人間の心の有り様を説明した。ありとあらゆる人間の行動はこれで説明できると考えたが、唯一フロイト理論で説明がつかなかったのが戦争である。第一次世界大戦の惨禍を目の当たりにして、フロイトは己の理論でこの惨禍が説明できないと考え、人間には死の衝動があると説明づけた。フロイトのあまたの著者の中に「人はなぜ戦争をするか」という作品があり、戦争を行ってしまう闘争本能があると提唱せざるを得なくなった。

ここで、話は生物学に移る。ローレンツという生物学者がいた。この人は動物には儀式(リチューアル)という行動があることを発見した。儀式(リチューアル)について解説する。ローレンツによると動物は基本的に闘争本能を持っている。子孫を残すためには他の種の攻撃から守る必要があり、そのためには相手を攻撃するしかない。故に、動物に闘争本能は必須なのである。しかし、ここで闘争本能が両刃の剣となる。種の保存のためには相手を攻撃する。しかし、また相手も闘争本能に基づいて攻撃するので、結果としてどちらかが負ける。負けたの種は滅亡することさえある。それではもともこもない。そこで動物の知恵として儀式(リチューアル)が編み出された(今これを書いていてスターリン・キューブリックの名作「2001年宇宙の旅」の冒頭の人類猿の争いと道具を使い始めることにより、その集団が驚異的に強くなって、それが人類につながっていくエピソードを思いだした。つまり、そういうことなのである。スターリン・キューブリックは「時計仕掛けのオレンジ」、アイズワイズシャット」、「フルメタルジャケット」
、「博士の異常な愛情」など毎回まるで違うスタイルで映画を撮っていて、まさに映画職人である。でも映画職人でまず頭に浮かぶのはビリー・ワイルダーで、この人の撮った「アパートの鍵貸します」のジャック・レモンや「検察側の証人(情婦)」のタイロン・パワー・・あっ、また脱線するのでやめる。ワイルダーの話をすると長くなり、さらにエンルスト・ルビッチまでいってしまう。ちなみに今回のアカデミー賞でシャーリー・マックレーンがゲストで出て喝采を浴びていた)。

では動物の儀式(リチューアル)について説明する。動物は闘争本能に従って争うわけだが(ローレンツによると異種同士だと争いはせず、同種内で争いが行われる種が多いそうだがその話は今回はしない)
、実際に攻撃をすると、己の命も失う可能性があるので、むやみに戦うわけにはいかない。そこで儀式をする。孔雀が派手な色合いの大きな羽根を拡げるのも儀式。犬がものすごい吠え方をするのも儀式。これは闘うまねをして、その時点の闘争本能を解消させ、かつお互いの身は安全のままという動物の知恵である。人間にも似たような行為はあって、インディアン同士がお互いパイプをくゆらしながらする儀式があり、これはまさに動物の行うその時点での闘争本能の解消なのだそうだ。この儀式を行うことでインディアン同士闘わなくて済むのである。

考えてみればボクシングなどのスポーツも闘争本能の解消のための儀式と考えられる。ルールの存在する闘争である。

さてここからが本題であるが、今まで述べたことを応用して、国と国の戦争や部族同士の紛争なども、動物の知恵である儀式を活用して、抑えこむことができないかという議論である。・・・今回はもうだいぶ書いたのでこの続きはまたにします。

プロジェクターはパワポの夢を見る

久保語録
03 /12 2017


久保です。今回は皆様お馴染みのパワポについて考えてみたいと思います。何かを発表するときにパワポを使うことは多いと思いますが、ここではパワポのメリットと落とし穴について考えてみましょう。

まずメリットですが、内容を整理して順序だてて発表できるところ、図・グラフ・写真などが見やすく提示できるところが挙げられます。また発表の時間配分の把握がしやすい(スライド一枚で何分くらい時間を使えば、全体としてうまく持ち時間内に収まる、という見通しがたつため)というのも、発表者にとってはありがたいことだと思います。
しかし、パワポであろうと内容の構成をしっかり作ってからスライドを作ることは大事ですね。いきなりパワポで内容を作っていくと、何となくスライドが流れていくので、内容のつながりが変でも何となくつながっているようにみえます。また、スライドに書く文は箇条書きや短いものが多いので、見やすいという利点がある一方、場合によっては内容が深まらないという弱点もあります。発表者としては、とりあえず項目をスライドに書いておいて、あとは口頭でその説明をすればいいと軽く考えると、内容が深まらないことがあります。

内容の深さより明快さを求めほうに偏ることが一方的に悪いとはいえず、ケースバイケースでしょうが、ただ表面的に明快さばかりの発表をよしとする傾向があるならばそれには疑問を感じます。また聞き手も同じように、明快であり見栄えがよい部分のみをとりあげて「ああ、いい発表だった」と満足します。そうなるとそれはお互いでお互いのレベルを下げていることになります。

またパワポに頼り過ぎると全体の流れがパワポに縛られて、パワポの説明に終始してしまう傾向があります。そうなると順番にスライドの文を読み、それに機械的に解説を加えていくという作業になってしまい、発表で最も大事な生の声で聴衆に伝えるということが疎かになります。発表とは伝える内容にどう想いを込めて喋るかが要だと思うので、聴衆から離れたスクリーンに近いところで机に座りパソコンの画面をクリックしながら、聴衆の顔をほとんど見ないで発表をしても発表者の想いが伝わるかについては私は疑問を持ちます(この意見には異議を唱える声が多い気もしますが)。

いずれにせよ、パワポに操られた発表ではなく、パワポを上手に活用した発表をしたいものですね。

ハナミズスウスウクン

久保語録
03 /05 2017


くぼです。私がすずかけにいた頃のある利用者さんの話です。その方は内職中心で作業していた方ですが、外作業や特養の作業にも参加するようになりました。その特養の園長は、その方が作業に参加し始めの時から気にかけてくれていました。一年くらい経ったあと、しばらくその方の作業の様子を見ていなかった園長がたまたま我々の清掃作業中に通りかかり、作業の著しい成長を目の当たりにして、「日々の積み重ねでこんなにも成長するんですね。労働とはなんとすばらしいんだ!」と言っていたのをよく覚えています。

さて話は変わりますが、私は小学校四年生から中学三年生まで珠算教室に通っていました。結果的には、全珠連は総合で二段、種目別で言うと割り暗算が六段、商工会議所は総合で初段を獲りました。よく算盤をしていると頭の中にそろばんが浮かぶんですよねと言われます。確かに浮かんでいて自由に珠が動くのです。ですから数字を記憶するときはそろばんの珠の並びで覚えます。電話番号や暗証番号などすべてそうです。困るのは目に
入る数字を知らず知らずのうちに足してしまうことです。街を歩いていると、看板の電話番号や住所の数字が勝手に頭の中で足されます。頭の中で常にそろばん珠が動き、いつも合計が算出される感じです(ここ数年ようやくこういった職業病もなくなりました)。でも実はそろばんをやっていて一番役に立っているのは飲み会で割り勘をするときかもしれません😄

小学生のときは、そろばんを習っている友達と読み上げ暗算ごっこというのをよくやりました。片方が「願いましては、346円なり、・・・」と金額を次々に言い、最後に「・・・293円では?」と問題を出します。もう片方が「・・・・円」と答え、それが合っていると、問題を出した方が「ごめい!」と言います。問題を出す側を交互に変えながら、延々とこれをやって遊びます。結構いい時間つぶしになりました。周りの人から見るととても異様な光景だったとは思いますが。

さて、私は地元の珠算教室に通っていたのですが、その先生は若くて威勢の良い男の先生で、普段は優しくてたくさん面白い話をしてくれました。ひどいときにはほとんど珠算の練習はせずに、先生の面白い話で終わるときもありました。これは後年の私に影響していて、私が塾の講師をしていたとき、半分以上が世間話になるときがありました。もうひとつ、私が憧れたのが、先生が読み上げ算の問題を出すときの早口だがはっきり発音していて、さらに心地よいリズムがついていく、まさに立て板に水の読み上げ方でした。私が経験したのは13桁、つまり兆の位から始まる読み上げ算で、これが立て板に水の勢いで読まれるのですから、計算するほうは一瞬たりとも気が抜けません。あの緊張感はちょっと他に味わったことがありません。私は立て板に水の読み方が好きで後年、講談の修羅場読み(太平記など)や落語の江戸っ子の啖呵(大工調べなど)や香具師の啖呵(がまの油売りなど)をよく聞くようになり、自分でも覚えました。当時なりたかった職業はラジオの実況アナウンサーで、ラジオの野球の実況に憧れました。さて、このように普段
は面白くていい先生なのですが、生徒が明らかにやる気がなかったり、ふざけてばかりのときの先生は鬼のように怖かったです。私が今でも忘れられないのは、ある生徒がふざけていたときに、なんとその生徒に向かって文鎮を投げたのです!当たらないように狙ったのか、運がよかったのかはわかりませんが、文鎮はその生徒の頭上少し上を勢いよく通り過ぎて、後ろの壁に大きな衝撃音とともにめりこみました。もうひとつ衝撃的だったのは、何かで先生が怒って自分のそろばんを机にぶつけて叩き割ったことです。そろばんの珠がきれいに弾け飛び、後ろの方に座っていた私の脇の床にまで、そろばん珠がコロコロと床を転がってきたのは今でも頭の中で映像が浮かびます。しかし、繰り返しますが、この先生は普段は優しく面白く人気がありました。

さて、珠算の問題は10分間など決められた時間にどれだけの計算をするのかが勝負なので、一秒たりとも無駄にできません。たとえ鼻水が出ようとも鼻をかんでいる余裕などないのです。これが困りました。この頃、私は蓄膿症にかかっていて、週1ペースで耳鼻科へ通っていました。耳鼻科では鼻水を吸う機械(きっと名前はハナミズスウスウクン)を使い、よくまあこんなに鼻水が出るなあ、と思うくらいの鼻水を吸い出していました。
(あっ、ここからびろうな話になるので、食事中の方は読むのをご遠慮ください)
ですから、一秒たりとも惜しいそろばんの計算中であっても鼻水は出てきます。でも少しくらい鼻が出ても決してかみません。そのまま出るに任せます。すると重力にしたがって、鼻水はずるずると落ちていき、途切れないまま長くなって、そろばんに向かってゆっくりと落下していきます。そしてそろばんに当たるか当たらないかの時に思いっきり吸い上げるのです。この行為が計算中に何度か行われます。一見簡単そうに思えますが、この技を会得するには長い時間がかかりました。鼻水を吸い上げるタイミングを間違え、何度そろばんに鼻水がつき、珠が動きづらくなったことか。まさに汗と涙と鼻水の結晶でした。


思い出のサンフランシスコ

久保語録
02 /22 2017


久保です。グループホームのバイトさんは、みなさん、ほんとにいい方ばかりでありがたいです。先日面接した方は、「ぼくは小学校のとき同じクラスにしょうがいがある友達がいました。ぼくは普通に遊んだりしてたけど、周りはその子と距離を置いていました。しょうがいがあったってみんな同じなのに、なんでそうなるのだろう。そんな雰囲気を変えたいと思い、教師になりたいんです」と言っていました。私はそのまっすぐな気持ちに心うたれました。

さて、話は変わりますが、大学を卒業した年にサンフランシスコでホームステイをしたときの話しです。そのステイ先には、いかにもカリフォルニア地方によくいそうな太めの気さくな女性(仮称メアリー)がいました。メアリーは普段一人暮らしでした(ご主人は離別か離婚か別居かはわかりませんでした)。娘さんが一人いるのですが、普段は別のところで暮らしていて、週末に母のところに帰ってきていっしょに過ごすのでした。

私は初めてのホームステイで、どんな感じになるのだろと思っていたのですが、メアリーが気さくで陽気な人だったので、楽しいホームステイを送ることができました。

ただ、週末に娘さんが帰って来たときがドキドキ・ハラハラでした。母と娘は初めは楽しそうに話しています。そんなときは親子水いらずを邪魔してはいけないと思い、私は自室に静かに引きこもるのですが、時々この親子は口喧嘩をし始めます。何が原因かわかりませんが、お互いがお互いをののしりあい、最後まで仲直りできないまま娘さんは帰ることもしばしばでした。ある時もものすごい喧嘩のあと娘さんはすごい剣幕で帰っていきました。残ったメアリーは一人ダイニングテーブルの椅子に座ってさめざめと泣いているのでした。大きな体の普段陽気なメアリーが泣いていると、私は気の毒になってなんとかしてあげないとと思いました。

「そうだ!鶴を折ってあげよう」。日本のガイドブックには外国人に折り紙を折ってあげると喜んでくれますよ。日本文化の紹介にもなります。と書いてあったので、私はほとんどやったことのない折り紙を覚えて何とか鶴はまがりなりにも折れるようになりました。

ここぞとばかりに自室で鶴を折って、メアリーに渡しました。メアリーの悲しい涙が喜びの涙に変わりました!「WAOH、お前は私のためにこれを作ってくれたんだね。とっても嬉しいよ。ありがとうね。ほんとにありがとうね。この折り紙大切にするよ」と、とても喜んでくれたのでよかった、よかったと、私はその晩静かに眠りにつきました。
さて翌朝。メアリーーはまた笑顔で私にあいさつと感謝の言葉を言ってくれるかな?とわくわくしながら、自室を飛び出し、リビングに来ました。あれ、メアリーはまだ寝ているのかな?ふと、ダイニングテーブルの脇にあるゴミ箱を見ると、なんとそこには、ぐちゃっとされた鶴があったのでした。メアリーの寝室からは大きな高いびき!
う~ん、恐るべし、カリフォルニア!

一羊会「ジョイント」

兵庫県西宮市にある一羊会「ジョイント」です。何気ないジョイントの日常やスタッフが何気なく思うことを発信していけたらと思います。どうぞ、のぞいてみてください♪

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